泣き言 in ライトノベル

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僕と彼女と黒い布

 走馬灯という夢がある。臨死状態の人間が見るもので生まれてからの人生を回想するようなものらしい。

 らしい、なんて言葉がついているのはそれは単に僕が臨死体験をしたことがあるわけでもなく、さりとて臨死体験をしたことのある知己に恵まれているわけでもないからだ。

 さて、なぜ僕がこんなことを考えているのかといえば、それはとても些細な出来事から始まった事件においてどうしようもないくらいに追い詰められているからだ。それはもう死を覚悟するくらいには。

 だから、ひょっとしたら走馬灯が見れるかもしれないとちょっとした好奇心で僕はそんなことを考えている。そう、好奇心だ。

 僕が巻き込まれた(引き起こした)事件は、純粋な好奇心によるものだったのだ。

「さて、どうしてくれようかしらね?」

 頭上から妖しい声が降ってくる。僕の目の前は真っ暗になっていた。

 

 誠に唐突ながら告白しておきたい。あるいは懺悔しておきたい。

 これは僕が隠している事実が明らかになったとき、こんな僕に共感してくれる人は少数だとしても存在してくれるはず……そんな希望的観測に基づく仲間と並び立つにあたり罪悪感を軽減するためのものである。つまるところ徹頭徹尾自己満足で自己保身でしかない。

 自分さえよければそれでいいなんて考えはクソだ。けれども、僕は告白せずにはいられない。それは仲間たちとともに夢を語りうるには必要な儀式であり、そんなこともあったなといつか笑いの肴なるべき話なのだ。

 僕は黒ストッキングのデニール数というものを、最近初めて知ったのだ。黒ストッキングの濃さは着用者の脚の太さに依存するものだと思っていたのだ。その事実を知ったとき、僕は驚天動地に襲われ、己の無知を大いに恥じた。

 黒ストッキングは肌の色が見えにくい、つまりデニールが高い方がいいのだが、かつて無知だった僕はそれが着用者の脚が太い故に起こる現象だと思っていたのだ。だからこそ、僕は申し訳なさに襲われた。己の無知を顧みず愛すべき黒スト着用者を不当に貶めていたのだ。かつての僕は白ストッキングで首を吊って自死すべき愚かな存在だったのだ。

 黒は至高、異論は認めない。

 そんな過激な思想も今では笑い飛ばせるようになった。そう大人になったのだ。

 黒は至高、異論があるならこっちに来るな。

 住み分けは大事だ。カトリックとプレテスタントのように道を違えようとも、かつて歩んできた道は同じではないか。手を取り合うことは不可能だとしても、己の領分を荒らし合うなど実に不毛だ。

 そう大人になったのだ。否定的な意見を見つければすぐに噛みついていた狂犬時代はもう過ぎ去った。

 大人に、なったのだ。

 けれど、大人になったことで手に入れたものもあれば、当然のように失ったものもある。今ではもう、黒ソックスや黒ストッキングを買うことはもうできない。かつて純粋な気持ちで店員さんにこれくださいと宣うことはかなわなくなった。それは隠すべき嗜好であるという知識とならば隠さなければならないという良心を身につけたからだ。

 もはや僕は店員さんに子供のお使いかなぁ? なんて視線を向けてもらうことはかなわなくなったのだ。個人の嗜好を他人に見せびらかして相手の反応を楽しむなんてことはできなくなった。

 ネットで注文したブツをさながらクリスマスプレゼントのように届けられることを待つことしかできない。純粋さよ、さらばだ。できれば、子供の頃お世話になった売り場のお姉さんにこんなに好きになりましたと報告できないことが心残りである。

 ――なんて益体もないことを、右斜め前に座る前川さんの脚を眺めながら考えていた。

 前川さんは敬虔な黒ストッキンガーである(もちろん、確かめたわけではない)。毎日毎日黒ストッキングを着用しているのだから多少の嗜みがあってもおかしくはないだろう。というか邪推してしまう。彼女は160というとてもデニールの高い黒ストッキングを愛用している。それはもう宮沢賢治のように夏の暑さにも負けずに、だ。

 夏の体育ですら彼女は黒ストを着用する。長袖のジャージを来ているわけではないから、肌を見せることに拒否反応があるわけでもないのだろう。おそらく、彼女はプールの授業があったとすれば、スク水の下に黒ストを着用するのではないかと思わせるほどの愛好ぶりだ。

 それが二年続けてクラスが同じだった僕の結論。ところで黒ストの下に下着をつけないのはとても背徳感に溢れていると思うのだが、どうだろうか。

 閑話休題

 とにかく、160ものデニールを誇る黒ストはまさに深淵といっても差支えはない。本当に黒い、としか言い様がないのだ。とりわけ後ろからは。

 大前提としてストッキングは伸縮性のある素材でできている。そして人間の脚は円柱のように単純な構造をしていない。太い箇所も細い箇所もある。体を動かせば伸びる部分も縮む部分もある。授業を受けるために椅子に座れば膝は曲がってしまう。となれば人体構造には抗えるはずもなく、膝部分において黒ストは伸びて若干薄くなる。

 ちょっと色の話をしよう。黒は全ての光を吸収してしまうがゆえに黒く見える。それは何もかも受け入れてくれているように見えて、何も返さないということでもある。だからこそ、椅子に座って黒の薄れた膝小僧を見せるということは何か返すつもりだ、つまり対話をする意志があるということだ。逆に言えば座っていたとしても若干斜めを向いたりして膝小僧を向けないのは、話したくないという意志の現れでもある。

 だから、僕が前川さんに話しかけるのは彼女が座っているときだけ、そして必ず目の前からと決めている。まあ、あんまり喋ったことはないんだけど。ほら、なんていうか好きなものは遠くから眺めた方がいいって言うしね。天下の名峰富士だっていざ登ってみればゴミだらけなんて話も耳にする。イエス黒スト、ノータッチである。盗むなんて言語道断、たとえ捨てられたとしても、いやいやまだまだリサイクルすれば別の用途で使えるからなんて思ったりしても絶対に拾ってはいけない。

 一歩間違えれば、犯罪者。そういうものは恋人に頼みましょう。うっ、恋人……辛い、辛いよぉ。僕も黒ストを履いてくれる恋人が欲しい。肩車したり膝枕してもらって触感を楽しみたい。

 できないんだよなあ、これが。僕も阿呆ではない。流石に彼女に夏にまで黒ストを履いてくれとは言わない。だから、黒ストを履いてくれる恋人の内、黒ストを履いてくれるまでは簡単だ。ただ恋人は無理。

 小悪党のような自己保身が黒ストの似合う女性に話しかけることを躊躇わせる。ダンジョンには侵入者を拒む罠が仕掛けられているように、黒スト(を履くのが)好きには黒スト(を見るのが)好きに対する嫌悪感までとはいかないでも嫌な気持ちはあるだろう。

 それはそうだと思う。黒ストを褒められて喜ぶ女性は少ないだろう。自分の手で選んで作り上げた服のデザイン、髪型、小物などなどそういうものを褒められたら嬉しいのはわかる。けれど、黒ストは黒ストそのものだからだ。

 単体で存在として完結しており、誰かが手を加えることはできない。わざと穴を空けて背徳感を演出するというやり方はあるにはあるが女性はそんなものをファッションとして認めてはくれないだろう。

 だから、思いを伝えにくい。

『その黒スト、似合ってるよ』

 なんて言われても、どう反応すればいいのだ。通報か? 通報すればいいのか?

 ポニテ好きが褒めるときは簡単だ。

『その髪型、似合ってるよ』

 これでいい。相手がポニテが好きでなかったり、褒められても嬉しくない相手でない限りはありがとうを返してくれる。

 暑い、蒸れる、などの欠点も素材の見直しなどで改善されてきており、世界は黒ストには優しい。世間も黒ストに優しくしている。けれど、黒スト好きには厳しい。

 それに気づくことなく大人になるなんてことがなくてよかった。毎日のように売り場へ向かい、店員さんから奇異の視線をぶつけられそれがやがて侮蔑に変わるような事態にならなくて本当によかった。本当によかった。

 大人にならなければ、そこに並べられた黒ストの真(デニール数)の意味にも気づくことなく、ただ愚かな豚でいただろう。ただ豚であれば己の嗜好のみを貪りブヒブヒと鳴いて出荷(逮捕)されるのを待てばいいだけだった。ただ、僕は世界を知り、ソクラテスになった。自分の嗜好は、これは許されていいものだろうか。深い葛藤に苛まれながら、どのデニール数が最上であるか昼夜問わず思索を巡らせた。

 そして、あるとき素晴らしい黒ストを見かけると救われるのだ。ああ、この道は間違っていなかった、正しい道を進んできたのだと。豚のままではこんな気持ちは味わえなかったのだと深く安堵する。

 だから僕は常にその身を深く律し続けなければいけない。黒ストとは決して独立した本体ではないのだということを、きちんと理解しなければならない。主体たる着用者を保護し飾り立てる付属物であり、そのことを忘れてしまえば人は容易く豚に身を落とす。

 舞台で例えるならば、黒ストは脇役だ。主役を引き立てる、そのためのものだ。確かに脇役の演技を褒める声もあるだろう。だが、圧倒的多数の前でそれを叫ぶには『主役こそが大事だ』と批判される覚悟を持たなければいけない。

「だからこそ――」

 チャイムの音が教室に鳴り響く。僕は思わず声に出していたそれをすぐさま引っ込める。ここで言っていいことではないだろう。黙せ、黙せば察せず。

 前川さんは、学友とともにどこかへ行ったようだ。スラリとスカートの裾から伸びる曲線美を眺められなかったことは残念だ。

 先ほどの言葉を飲み込んだせいで、気分が悪い。前川さんの黒ストを見れば絶対に忘れてしまっていたのに。さりとて探すわけにもいかない。

「逃げよう」

 僕は、そう呟いて屋上へと逃げ込む。黒ストには、ミニスカートが似合う。ミニスカートには屋上は似合わない。

 自らを恥じるには、黒ストは目に毒だ。