5月28日の誕生日-WHITE_ALBUM2_遅れてきたバースディ-
東京都内某スタジオ。世界的なピアニストとして名を馳せる冬馬かずさは苛立っていた。素人が聞けば、感動するような旋律を撒き散らしながら。
「……かずさ、今日はいい加減にやめにしたら?」
「うるさいな! 今日はほっといてくれ!」
しかしながら、その母親であり、目標であり、ライバルであり、つまるところ同業者である冬馬曜子にとってかずさの感情は筒抜けである。ちなみに本日五月二十八日、冬馬かずさの誕生日。
「ギター君だって散々謝ってたじゃない。それにかずさ、あなたがギター君に口止め頼んでたから彼だって職場に言い訳として使えなかったのよ?」
「だから、それぐらいわかってるって!」
恋人である北原春希が仕事で来れないと知って、かずさの苛立ちは頂点に達していた。本来ならば春希の職場ならかずさの誕生日を祝うためと説明さえすれば休ませてくれることだってできただろう。だが、それを嫌がったのはかずさ自身だ。かずさのマスコミに対する拒否感からか、春希がいくら大丈夫だと説明しても首を縦に振らなかった。ふたりは近々結婚を予定している。そしてできる限り静かに式を挙げたいというのがかずさの要望だ。だからこそ、ふたりができているなんてゴシップは御法度である。
「あ、またミスした」
「…………」
「これ以上やっても練習にならないわよ? なら、疲れが溜まらないように早めに切り上げてくれると経営者としても母親としても安心できるわ」
「だから、うるさい! 母さんだってあるだろ! 何も考えずにひたすらピアノを弾いていたい時が!」
「それはそうだけど、あたしだって年なのよねえ。若者に付き合って深夜まで起きてるっていうのも中々厳しいのよ」
「……娘の世話が面倒だからって、急に年寄り振るなよ。まだまだ現役そのものだろうが」
「そうよねえ、最近はギター君か美代ちゃんがかずさの世話をしてくれてたから楽できたわあ」
「話を聞け!」
怒りと呆れが大体半々くらいの叫びがスタジオに響く。
「何よ、何も考えずにひたすらピアノを弾いていたかったんじゃないの?」
「っ!」
痛いところを突かれたかずさは捨て犬のようにしゅんとして俯いてしまう。
「仕方ないだろ、せっかく春希の奴と一緒に過ごせると思ったんだ。少し位、落ち込んだっていいだろ……」
「我が娘ながら、まさかこんな可愛らしい乙女に育つなんて思ってもみなかったわね」
「……うるさいな、しょうがないだろ」
かずさの声は若干涙声で掠れていた。冬馬かずさは我侭な女の子だが、日本から逃げ出してからの五年もの間、ひとりの男に恋をし続けそれを実らせた純情で一途な女の子だ。
そのことを曜子は多分、世界で三番目くらいには知っている。だが、その恋を一番間近で見てきたのは間違いなく冬馬曜子だ。
同業者として、ピアノの旋律を通して痛いほどに。そんな届かない恋が届くとは曜子は想像すらしていなかったが……。
ちょっとだけ訪れた静寂をすぐさま破るように曜子の携帯の着信音が鳴り響く。
「……あら、美代ちゃんからだわ」
「美代子さんがどうして電話を……?」
「さあ? 大方、彼氏が誕生日に来れなくてふてくされてる女の子の心配でもしてるんでしょう?」
「何だよ、それ……」
「あ、かずさならいつものスタジオでやけになってピアノ弾いてるわよ? ごめんね、心配かけちゃって。今から来てくれるの? そう、じゃあ、わたしがいなくても大丈夫ね。ええ、かずさも喜ぶと思うわ」
「というわけでお迎えが来てくれるみたいだからわたしはこれで帰るわ。あんまり無茶しすぎないようにね」
電話を切ると曜子はさっさと帰りの準備をしていく。それに驚いたのはむしろかずさの方だ。かずさはこの母親ならきっと文句を言いながら自分の愚痴に一日中付き合ってくれるものだと信じていたから。
「ちょ、ちょっと母さん!?」
「あのね、かずさ何も考えずピアノを弾いていたい時があるって言ったのはあなたでしょう? 心配だから迎えは呼んだからそれまで好きなだけピアノを弾いてなさいイライラしてたっていいことなんてないわよ?」
「……わかったよ。今日は母さんの言うことを素直に聞いておく」
「ありがと、かずさ。それとね、誕生日、おめでとう。何だかんだで言ってなかったから」
かずさは一瞬、ポカンとした顔をする。そんなことはすっかり失念していた。
「うん、ありがとう。母さん」
「ふぅ」
もうすぐ五月二十九日になりそうな時間帯にかずさは鍵盤から指を離して一息ついた。気分もだいぶ落ち着いてきた。
「そういえば美代子さん遅いな?」
曜子が迎えに来ると言っていたがいくらなんでも遅くはないだろうか。そもそも何時頃に来るとも連絡すら受けておらず、どことなくおかしい。
「孤独な~ふりをしてるの~なぜだろう? 気になっていた~」
かずさはなぜだかあの歌を口ずさんでいた。高校時代の思い出から引っ張り出して。
そういえば自分は春希に誕生日を祝われたことはなかったなとかずさは回顧する。本格的に話すようになったのは文化祭前だったし、五年ぶりの再会もストラスブールのクリスマスイブだ。
こんな春までかずさは春希のそばにいられたことはなかった。
「このまま、なんてことは流石にないよな?」
そんな風にかずさの弱気な独り言が溢れたとき、スタジオのドアが勢いよく開かれた。
「かずさ!」
「春希……?」
そこにいたのは今日は仕事で来れないはずの恋人、北原春希だった。
「はあ、はあ」
明らかに急いできたのであろう春希は激しく呼吸している。
「お、おい春希……」
「かずさ、誕生日おめでとう!」
息を整えた春希は紙袋をひとつ目の前に差し出した。
「何だ? これは?」
「いやな、一応ケーキも予約しておいたんだが急いで崩したら元も子もないと思ってこっちにしたんだよ。お前も好きだろ、プリン」
「そんなもので騙されるほどあたしは簡単な女じゃない。どうして遅れたのか、釈明をしろ、釈明を」
「だから、仕事で仕方がなかったたんだって」
「そんなもの、誰かに任せればよかっただろ! あたしの誕生日は一年に一回しかないんだぞ!」
かずさは叫んでいた。今日一日溜め込んでいた鬱憤を吐き出すように。
それに対して春希は申し訳なさそうに頭を掻いている。何か言い出しにくいことがあるかのように。
「……他の人に任せるわけにはいかないだろ、冬馬かずさの特集記事なんて。……ほら、これが原稿」
そういって春希は紙束をかずさに渡す。
「じゃあ、春希。お前は……」
「ああ、今日一日ずっとお前のことを考えて仕事をしてた」
「卑怯だぞ、春希。そういう言い方は卑怯だ。これじゃあ、あたしは誕生日に仕事にかまけて来れなかった彼氏を怒ることなんてできないじゃないか……」
「まあ、遅れたのは事実だ。だから、お前には俺を怒る資格がある」
「ずるいぞ、春希。あたしはピアノでお前のこと考えないようにしてたのに」
「なら、ピアノを聞かせてくれよ、かずさ。お前のピアノを」
「ああ、わかった。だから、寝るんじゃないぞ、春希」
五月二十八日、東京都内某スタジオ。ふたりの幸せを祝福する旋律が流れ出した。