WHITE_ALBUM2~ 夢想歌は終わらない~
え、と気づいたときには植木鉢が地面に落下し、パリンと音を立てて割れていた。
「ごめんね、かずさ」
重なり合った唇が数秒の時間を経て離れる。ちょっと背伸びをしてキスをした小木曽雪菜は恍惚とした表情で親友である冬馬かずさ、の恋人である北原春希を見つめていた。
「せつ、な。いや、何……を。え……なん、で」
唐突な感触に春希は戸惑っていた。これから、恋人の大学合格と親友の誕生日を祝うはずだった。最近こそはぎこちなかったが、またあのライブの狂乱を取り戻すのだと、取り戻せるのだと思っていた。
春希にとってかずさは大切な恋人だ。ずっと憧れてきたお隣さん。一目惚れの相手。それが奇妙な因果で共にバンドをすることになり最高の時間を過ごした。
春希にとって雪菜は大切な親友だ。誰もが憧れる高嶺の花。学園のアイドル。一歩を踏み出せなかったかずさの背中を押して、春希とかずさの関係を祝福してくれた。
そんな最高の三人の関係が春希はずっと続いていくものだと思っていた。
「ごめんねぇっ……春希くんっ……」
そうして謝る雪菜はまるで禁断の果実を齧った少女だ。底知れない罪悪感と隠しきれない喜びに溢れていた。
「わたし、こんな酷い女なの。かずさが大好きな春希くんをわたしは、大好きになってしまった。わたしが、言い出したのにぃ……わたしが、裏切っちゃたぁ。ねぇ、はるきくん。わたし、さいていだよねぇ……?」
「ちが、う。雪菜は……」
すぐさま春希は雪菜を擁護しようとする。けれど、言葉に詰まる。春希だって、冷静にはいられなかった。とてもじゃないが冷静になれなかった。それだけ雪菜の唇は柔らかく、耽美な味わいだった。
「ごめんなさい、かずさぁ……ほんとに、ほんとうに、ごめんなさい、かずさぁ……」
春希の中で戸惑いが広がっていく。こういう場面を難なく切り抜けられるほど女性経験は豊富でない。
「はる……き? せ……つ、な?」
そしてもう一つバスケットの落ちる音がした。
「おめでとう、かずさ」
「どうも。……そっちこそ、おめでとうな、雪菜」
三人、いや、正確に表現するならば一人と一人と一人が冬の寒さが厳しい路地を歩いていた。ほんの少し前に最高の時を過ごした三人がまさかこんなふうになってしまうなんて春希は思ってもいなかった。
「ううん。そんなことない。……ごめんね、かずさ」
「っ!?」
雪菜、春希、かずさという順番で並んで歩く一人と一人と一人。春希は右隣の自分の恋人がその謝罪に肩をビクッと震わせたことを感じ取った。
「……その、バスケット。無駄にしちゃって」
「あ、ああ。それこそ、気にするな。あたしの金で買ったもんじゃ、ないからな」
そして、また逆の肩にビクッと何かが跳ね上がる感覚が走るのを春希は感じる。
左にいる女の子のことも、右にいる女の子のことも、理解しているつもりの春希にとってはとても驚くような、そして悲しくなるようなよそよそしい会話だった。
バスケットからこぼれ落ちた果物が無駄になったという事実に逃げた雪菜も、仮にお小遣いという形式で買ったものであっても高かったんだぞと皮肉の一つも言えないかずさも、やはりよそよそしい。
言いたいことも言い合えない関係が友達と言えるのかは春希にはわからない。
そして春希は、雪菜の親友として、かずさの恋人として何も言うことができない自分を一番呪っていた。
お互いがお互いを傷つけないように真実を隠して、言葉をつぐんでしまう。
「春希くんから聞いたよ。入賞できなくて、残念だったね。メールでは言ったけど、やっぱりこういうのは直接会って伝えるのが、一番だよね」
「……別に、悔しくないかといえば嘘になるけど、納得もしてる。二年も真面目にやってなかったんだ、仕方ない」
「そっか……」
「…………」
「…………」
「…………」
息の詰まるような沈黙。
「あのっ! 俺、本当に――」
「やめて!」「やめてくれ!」
「つっ!」
責任を被ろうとする春希の一言を雪菜もかずさも止めに入る。
その一言で、完全に終わってしまうのを理解していたからだ。何もかもを背負い込んでしまうのは春希の美点でもあり、欠点でもある。少なくとも、隣にいる少女たちはそうあって欲しくないと願っている。
北原春希が一人で全てを背負い込むことを許容しない。少女たちはむしろ、ともに背負う道を選ぶ。
「せっかく今日は――」
二人の声が重なる。小木曽雪菜と冬馬かずさ
「かずさの合格祝いなのに!」「雪菜の誕生日なんだ!」
そして、思いも重なる。
仮に、誰の目から見てもいずれ崩壊するに違いない関係性だとしても、それは関係性を維持する努力を怠る理由にならない。
雪菜の誕生日とかずさの合格。奇跡のようなタイミングで重なった二つの祝い事が微かな繋がりを今なお残していた。
「今日だけは、今日だけは、それを言わないでください」
「頼むよ、春希。夢みたいに嬉しい日なんだ。少し位幸せな気分に浸らせてくれ」
「……わかった」
そこからかずさ邸までの道のりで、誰も口を開くことはなかった。