冴えない彼女の育てかた egoistic lily~please apology~3
いや、決してコミケに行きたくなかったわけではない。純粋に熱が出た。両親は都合よく、ストラスブールへ旅行に行っている。冬だったら、露骨にフラグが立ってたな。
それはともかくとして熱が出たことでほっとしている自分がいたことも確かだ。
きっと今行ったところで、体調が万全だったところで、コミケを楽しむことはできないだろう。それはコミケを準備してきた人、作家さんたち、そして一般客。それら全員に対する冒涜だ。純粋にコミケを楽しむことができない人間が混ざるというのはそういうことだ。
みんなは今頃どうしているだろうか?
英梨々に買うもの頼めばよかっただろうか? それとも伊織に頼むべきか、いや、あいつに頼んだらきっと面倒なことになる。こんな時にでも執筆をしているのだろうか? そして加藤は、きっとコミケには行かないのだろう。
せっかくのお盆なんだ。家族と仲良くしているのかもしれない。ひょっとしたら従兄弟の医大生と買い物に行ったりしているのかもしれない。それは何か嫌だな。
でも、今の加藤は俺のメインヒロインじゃない。あの作品はもう完成した。俺の思いは成就したんだ。だから、それを止める資格なんてない。
アナログ時計の針の音が部屋の中で妙に響いている。孤独、静寂、ベットの中で横になる俺以外に何もなかった。
机の上にはあの同人誌が置いてある。実は昨日、あの同人誌を地面に叩きつけようとしてしまった。多分、怖かったから。それでも踏みとどまれたのは、それがブーメランとなって突き刺さるからだ。あの日、俺は英梨々に謝らせようとした。俺にではなく、出海ちゃんに。本をつっ返すという、もっともやってはいけないことを、謝らせようとした。
英梨々は言った。返さなければ、破り捨てていたと。あの時の英梨々の気持ちはきっとこんなんだったのかもしれない。もちろん、俺とあいつじゃ比べ物にならないけど。
突然、携帯電話が鳴る。着メロはあの作品のラストシーンで使われるBGM。それが鳴るたびに俺はあの感動のラストを思い出して、僅かに涙ぐんでしまう。けれど、今は涙ぐむなんてレベルではなく、号泣していた。一番辛いときに、一番楽しかった思い出が蘇る。
BGMは鳴り止むことはなく、部屋の中に響き続ける。そうか、出ないといけないのか。服の袖で涙をぬぐい、通話スイッチを押す。
「あ、もしもし、先輩ですか?」
電話の主は、rouge en rougeの原画担当波島出海ちゃんだった。彼女は今、コミケを楽しんでいるはずなのに、電話をかけてくれたということは外に出ているのだろう。
「もしもし、聞こえてますか、先輩?」
「うん、聞こえてるよ。出海ちゃん」
「いつも来てくださる時間にいらっしゃらなかったので、どうしたのかなぁと思いまして。……ご迷惑でしたか?」
「ああ、rouge en rougeは今回ドラマCDを出したんだっけ?」
「はい、なので今回はfancy waveの方で本を出したんです!」
rouge en rougeはもはや企業とも言うべき巨大組織だ。そのため毎回、違ったものを出しているためユーザーを飽きさせることはない。ドラマCDなら絵は精々カバーイラストだけだから、出海ちゃんの元のサークルで本を出すようができたというわけだ。
カタログで確認してたはずなのにすっかり頭から抜けてた。
「それでですね、私初めて壁サーになれたんですよ。今回もリトラプ本を出させてもらって、しかも原典というべき1です! 1! なんとかお兄ちゃんに頼み込んでハード揃えてもらったんですけど、やっぱり凄く感動して! 先輩はどのルートが一番好きですか? 私はもちろん、シンフォーニュ様なんですけれど、あの二人寄り添って暮らす場面が本当に素晴らしくって!」
ふと、心地よく聞いていた出海ちゃんの長広舌が止まった。
「出海ちゃん?」
「すいません、先輩が来れないのにはしゃいじゃって……本当にごめんなさい」
「いいよ、気にしなくて。むしろ、コミケで楽しまないとかそっちの方が駄目だよ」
「それで、あの、その……」
急に出海ちゃんの声のトーンが低くなる。歯切れが悪くなっていき、ついには黙ってしまった。少なくとも、元気いっぱいの彼女にはあまり似合わないテンションだ。
――まるで言いにくいことがあるみたいに
「出海ちゃん、本当に大丈夫――」
「やあ、倫也君久しぶりだね」
お兄ちゃんに代わりますという、か細い声とともに男にしては若干高くて、それでも透き通ったような声が電話越しに聞こえた。
「伊織、どうして出海ちゃんを使った?」
「君だってうちを使って出海にコンタクトを取ろうとしたじゃないか。おあいこだよ」
そんなことは全然同じじゃない。電話の向こうで邪気を消しきれていない笑みを浮かべているのが目に浮かぶぜ。
でも、こいつになら聞けるかもしれない。こいつは自分の才能のなさを度外視しても創作に関わり続けているゴロの極みだ。まだ、大学生だからゴロに留まっているが卒業すればこいつは本当の意味で解き放たれる。
「なあ、――」
「ところで倫也君。君のところはいつになったら新作をだすんだい? 僕は二年間首を長くして待っていたんだけどね」
「なんでお前が俺のサークルの作品を待ってんだよ。敵だろ、俺とお前は」
「霞詩子と柏木エリの新作同人ゲームを期待しない奴がどこにいるって言うんだい?」
「rouge en rougeの売り上げを食うことはあっても増やすことはねえぞ」
そもそもシャッター前のサークルなんて完売が前提だ。だったら完売が早いか、遅いかの差でしかない。
すると、伊織が溜め息を漏らす。
「倫也君、勘違いしているようだけど、僕だってサークルの代表である以前にオタク文化を愛する者だ。素晴らしいゲームが出てくることを歓迎しないわけがないだろう?」
俺だってそうだ。伊織のことは気に食わないけどrouge en rougeの作品は絶対買う。霞詩子と柏木エリが同人ゲームを作るというなら絶対に買う。
「……そうだな、お前も同人ゴロである前に一人のオタクだ」
「わかってもらえたようで結構だよ。それじゃあ、blessing softwareの新作、一人のファンとして楽しみにしているよ。じゃあね、倫也君」
「待て、伊織。お前、俺と組む気はあるか?」
俺はなんでこんな意味のないことを聞いているんだ? 伊織がうんと言おうがいいえと言おうが俺がサークルを変えるわけがない。
全く、意味がない。
「その質問は、二年前に聞きたかったなあ。それじゃあ、改めてまたね。倫也君」
そして、ツーツーと電話が切れる。伊織の答えは全くの予想外でできれば俺が聞きたくない答えでもあった。
簡単な話だ。伊織に認められることで自分の価値を証明したかったんだ。そしてそれは俺にとっては残酷なかたちで示された。
「そうか、今の俺はそんなに駄目か……」
溢した呟きは、静寂に包まれた部屋にしんと通り、やがて消えた。