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恋するメトロノーム-第一稿・第一章-

そういうわけです

コメントで感想意見をどしどし募集しています

あと、就職先欲しいです

忙しくてモチベーション保てないです

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 昼休みの教室に差し込む日差しが、ちりちりと肌を照らし今年の夏の暑さを嫌なくらい予想させてくれる五月下旬。
「なぁ、直人。そろそろ中間の結果張り出される頃じゃね?」
「安心しろ伊織。俺もお前もそんなものにうつつを抜かしている暇なんてあったか?」
 生憎と成績上位者なんてものと縁のない俺とその腐れ縁であるところの萩原伊織は、購買で買った焼きそばパンの味に舌鼓を打っている。もっとも、他の生徒たちはそういうわけではなく結果が張り出される廊下の方はにわかに騒がしくなってきている。
「ないな」
「だろ? だったら今は飯を食え。結果を見たいならもう少し人ごみが減ってからにしろ」
 順位の公表なんて努力の過程が結果に結びついたかを相対的に確認するだけのものだ。その努力をしていない奴が見たってあんまり意味はない。
「へいへい。ところで直人、最近なんか面白いことあったか?」
「面白いのは、その、唐突に話題を変えてなおかつ面白いことあったかなんて漠然とした疑問を投げかけてくるお前の頭だ」
「そんな御託はいいからさ、あったの? なかったの?」
「そうだな。これは友達の友達から聞いた話なんだが……」
「丸戸くん、今度の掃除当番ちょっと用事が入ったから代わってくれない? 埋め合わせはちゃんとするから」
「ああいいよ、それくらいなら」
 クラスの女子が面倒事を押しつけた……というわけでもなく実際に埋め合わせか何かはしてもらっていて、基本的にギブアンドテイクがきちんと成立している。
「ありがと。じゃあね」
「悪い、話の腰を折ったな。その友達はかなり頭が良かったんだ。そうだな、具体的にはこうして駄弁ってばかりの俺たちじゃ歯が立たないくらいに」
「いうほど頭良くないだろ、そいつ」
「まぁ、最後まで聞け。そいつは中途半端に頭が良かったから授業なんて聞かずにずっと図書館やら家で自習していたらしい」
「その中途半端って言葉がそいつの将来を既に暗示しているな」
「お、いたいた。丸戸いつぞやのノートのお礼だ。なんか飯でも奢ってやるよ」
「あ~、悪い今日はちょっと用事があるんだ。気持ちと金だけは受け取っておくよ」
 と、いうふうに決して与えるだけじゃあ、ないのだ。
「しゃーねぇな。ほら五百円」
「毎度どうも。またなんかあったら言えよな」
「……」
「悪ぃ、また話の腰を折った。その友達の友達の友達は猛勉強の甲斐あってぐんぐんと成績を伸ばしていたんだ」
「ちょっと関係性が遠くなってけど、成績の上昇はいいことだな」
「そろそろ、進級って時期になって教師に呼び出されたそいつは衝撃の一言を突きつけられる」
「あぁ、オチがもう見えたな」
「まぁ最後まで付き合えよ。その教師は言うんだ『お前、成績優秀者で表彰されるから次の終業式は出ろ』ってな」
「留年じゃねーのかよ!」
「出席だけはちゃんとしていたのさ……」
 ちなみに、本当に頭の良い奴はやたらむやみに波風を立てるようなことはしない。授業をサボりまくるとかな。目立たないくせに成績優秀者だけはかっさらっていく、そういう奴が世の中には、いる。
「これから伊織、お前が得るべき教訓は要領が悪い奴が良い奴の真似をしたところで悲惨なことになるだけだということだ。赤点連発で留年なんてことにはなるなよ?」
「はいはい。どうもありがとうございました。じゃあ、そろそろ成績でも見に行こうぜ」
「ん、ああ。大半のやつらは自分には関係ないのに、どうしてわざわざ見に行ったりするんだろうな」
「話の種だろそういうのって。何でもかんでも、いつでもどこでも話題になりそうなもんを探してるんだろうさ」
「大層なこった」
 廊下に出ると野次馬は随分と減って、随分と見やすくなっている。上位五十人まで張り出されるこの学校で、当然の如く俺も伊織も名前は載っていない。勉強はさほどしていないんだから、当然と言えた。
「今回も一位は深崎か。中間も譲らずっと」
「知り合いなのか? だったらどうして教えてもらわないんだ」
「……いや、もういいけど、知り合いじゃねぇ。彼女、一年の初めから学年一位を譲ったことがないだって」
「そいつは凄いな。でも、興味はないな」
「知り合いは多い方がいいんじゃなかったのか」
「ずぅぅっと学年一位とか、とんでもないガリ勉さんだろ? あんまり良好な関係性を築けそうにはない」
「それは言えてる。直人って面倒臭がりやの最後の砦って扱いだし、何事もそつなくこなす優等生と関わる機会なんてないか」
「そういうことだ。さらに言えば、そういう人に関わるくらいならネット漁ってる方が面白い」
「お、また面白いネット小説でも見つけたか? なんなら教えてくれよ」
 ネットの海に漂流する良作を見つける困難さを理解せず、ただ乗りしようとする友人にちょっと苛立ちを覚えつつ、かといってせっかくの良作を広めないというのもかなりもったいない。あのサイトは結構面白い小説を載せていて、新作もぜひ読みたいです、という俺のコメントも残されている。が、実際コメントは俺のものくらいでそれはまぁ、過疎っている。
 かくして、開拓者は後発のものに搾取されるのである。
「白湯の飲み場ってサイトだな。個人運営っぽい割にしっかり作りこんであってレイアウトがいい。内容も作者の頭の良さを感じさせる。なんというか、凄く作りこんであるんだよ。よくわからない分野の知識とかもわかりやすく説明してて、多分作者は凄く頭がいいか、物凄く真摯に物語と向き合ってんだろうな。読んでいて好感の持てる作品だ」
「そりゃ大層なこった。面白そうだけど、作者と作品は無関係だぞ」
「面白いよ、普通に。それに作者を想像するのも楽しみの一つだ」
「直人にそこまで言わせるとか、期待しておくよ」
「たまにはお前も自力で発掘しろと言いたけどな、俺は」
「こっちはネット小説っていう娯楽に、そこまでのめり込んでるわけじゃないからな」
 と、まぁこんな感じである。たまに面白い小説を見つけたら報告すれば読むくらいで、伊織自身がそこまで乱読するタイプじゃない。というか、こいつは女の子と遊んでいる時間の方が圧倒的に多い。
 言ってしまえば、娯楽なんて個人の好みだ。押しつけるものでも、押しつけられるものでもない。最終的に自分が楽しければそれで良くて、伊織も間違ってはいない。俺だって誰かがやらなければ、小説を書いて電脳の海に放流するなんてことをしてくれる人がいなければ、読書なんて趣味は成立しない。
 だからといって、姿の見えないライターを気遣ったりなんて、少なくとも表面上だけだ。更新が遅ければ内心毒づくし、止まってしまった暁にはやってられなくなる。そんなことをしていられるのは相手が見えないからで、他にも無数に存在して、結局のところ俺の人生とはなんら関係がないからだ。
「で、伊織は今日はどうするんだ? 他校の女の子でも引っ掛けるのか?」
「お前、俺が女子と絡むことしか頭にないと思ってるだろ?」
「違うのか?」
「違ぇよ! 言っとくけどなぁ、あれは全部合意の上なんだよ。向こうも俺がこういう人間だってわかってるし、俺もそれを前提にして付き合ってる。なんか問題あんのかよ」
「ないな。バカだとは思うけど、バカにはしないさ。ただし、そのリスクだけはきちんと承知しておけよ」
「わかってるわかってる」
「そういうおざなりな態度心底不安になるんだよなぁ」
「あ、おい。チャイム鳴ったぞ。戻ろうぜ」
 昼休み終了の鐘が鳴り、廊下の掲示板前に集まっていて人の波があっさりと引いていく。
「――――」
「ん?」
 声が聞こえた気がして、背後を振り返る。けど、各々の教室に戻る生徒に紛れて、声の主は跡形もなく消えてしまっていた。
「おい、さっさとしないと口うるさい教師に目をつけられるぞ?」
「ああ、そうだな」
 かといって、そのことにそれ以上の興味を示すことなく伊織の声に従うまま教室へと戻る。

「さて、と直人俺はもういくけど……」
「構わないさ。さっさと行って来い」
 用事のある伊織を先に帰して、こっちはこっちでやることを済ませよう。
「あ、丸戸くん。この前の荷物運び、ありがとうね。おかげで助かったよ」
「気にしないでください、先輩。その代わり、お礼はきちんとしてくださいね?」
「君、そこのところしっかりしてるなぁ……うん、お礼はちょっと待ってね。これから演劇部で用事あってさ」
「はい、上演の方楽しみにしてます」
 最低限のものを詰めた鞄を掲げて、階段を下りていく。
「おい、丸戸。明日の放課後時間空いてるか?」
「はい、大丈夫ですけど、何か?」
「いやぁ、今週末の三年生向けの講演会なんだが、準備を手伝ってくれるはずの生徒が風邪引いてしまって、代役を頼みたいんだが……」
「え、っと……そうですね、一時間くらいなら大丈夫です」
「ああ、そんなにかからない。いつものことながらすまんな」
「いえ、気にしないでください。それではさようなら」
「おう、気をつけて帰れよ」
 先輩にも、教師にも頼まれたことはなるべくこなす。そこそこ真面目で、そこそこ不真面目。そういうライン。
 そして、階段を下りたところでそのまま図書室に。
「永井さん、『モルダウの空』入荷してます?」
「ごめんねぇ、素早い生徒さんに借りられてるよ。人気作家の新作なんだからもうちょっと早く来ないと……」
「あ~、まぁ、ダメ元でしたけどね。発売日に読みたかったんだけど」
「そういう手頃な手段で済ますのは構わないけどたまには本は買ってあげないと」
「わかってますって。今回はちゃんと買うことにします。永井さんも、お早い準備お疲れ様でした」
「はい、さようなら」
 学校の図書室に入荷している、お目当ての本はどうやら先を越されたみたいだ。次に向かうべきは最寄りの帳文堂書店か。
 でも、あそこって新刊とかあんまり数を置いてくれないんだよなぁ。

「いらっしゃいませ~」
 店員さんの威勢のいい声に出迎えられて、店内をふらつく。既刊コーナーを覗いているだけで、面白そうなものが自然と手についてしまう。背表紙を寂しそうに見せているそれを手に取り、表紙を確認して、中身をパラパラとめくる。
「って、こんなことしてる場合じゃなかった」
 いつの間にか、抱えていた本をそのまま持って新刊コーナーへ。数ある新刊の中でも、お目当てはごっそり減っている。
「(本当にもっと早く来ればよかった。寄り道厳禁だな)」
 内心反省して、けれど直す気はあんまりなくて、考えなしに、右手を伸ばした。
 けれど伸ばした右手人差し指は本に触れることなく――
「「えっ?」」
 ぶつかったのは、別の人の手だった。
「ご、ごめんなさいっ」
 とっさに手を引っ込める。そのまま、恐る恐る視線で辿っていく。ぶつかってしまった指先は白魚のようで、細く小綺麗だ。同じ学校の女子生徒の制服に包まれた腕は、よく伺えない。細すぎず、太すぎず適度に肉がついている。肩にかかるほど伸びている黒髪は手入れが行き届いており、さらさらと流れていく。体つきは華奢で――
「って何考えてんだよ、俺……」
 その思考に頭が痛くなり、こめかみに手を当てる。初対面の女子生徒をじろじろと観察するなんて、まるでどこぞの友達みたいだ。
「あ、あのっ!」
「こっちこそいきなり手を出して、ごめん。驚かせちゃったかな」
「い、いえ! その……それは大丈夫です。だから、その」
 女の子は見るからに怯えている――じゃなくて、緊張している――でもない。ちょっと気まずそうにこちらを向いている。
「ああ、これ? いいよ、君が買っても。俺はさほど急いでるわけじゃないし」
「そ、そうじゃなくて私も、べ、別に……急いでるわけじゃないので、お先にどうぞ!」
 そうやってぐいっと押しつけられてしまえば、断りにくくなる。
「え、っとじゃあ、ありがとう?」
「あ……」
「……」
 そういういかにも残念がって落ち込む表情を見せられてしまえば、これをレジに持っていくのはちょっとばかし躊躇われる。
「はぁ……」
 仕方がない、こういうのは目覚めが悪くなるんだ。
「お会計四点で五千七十六円になります」
 既刊コーナーにもう一度寄ってから素早く戻り、会計を済ませようとする。そして、その数字を聞いて、ちょっとばかし驚いて、困ったような表情を作り――
「あの、すいません。ちょっといいですか?」 
 と、言えばなんら問題ない。

「えぇ、っと。これ、どうぞ」
 先ほどの女子生徒は新刊コーナーで溜息をついて明らかに落ち込んでいる。新刊を入手できなかった悲しみの大きさは、十分に慮ることができた。
「え! あ、あれ? さっきの、一体どうして。それに手に持ってるのは……」
「いや~実はちょっと買いすぎちゃって、財布の中身をオーバーしちゃって。そういうわけで、先に譲るよ」
「……」
「どうかした?」
「ううん。そっか、そうだよね。やっぱり……こういうものだよね」
「迷惑……だったかな?」
「全然そんなじゃないよ。ただ……」
「ただ?」
「やっぱり、なんでもない。それじゃあ、この本、どうもありがとうございました」
 彼女はペコリとお辞儀をすると、会計の列に並ぶ。俺はいいことをしたとばかりにそのまま店内をあとにした。忘れ物に気づかないまま。

 そして、翌日。同じように会話の相手は伊織である。昼休みの教室で食べる飯の味は男と食べようと女の子と食べようと変わらない。 
「話を聞く限り、どうやらお前の忘れ物は三つ。そういうことでいいな」
「彼女の名前を聞き忘れたこと。そして、借りっていうのは返してもらわない方が価値があるから、まだお礼をしてもらう段階じゃないんだよ。で、お前の言うあと一つはなんだ? 伊織」
「その彼女と、お茶にでも、と誘って連絡先を聞き出さなかったことだ」
「なるほどなるほど、確かに連絡先も聞いておくべきだったかもな。けどその、お茶にでも誘う必要性は感じられない」
「なんでだよ。絶好のチャンスじゃんか!」
 伊織の場合、女の子と仲良くなるという行為一つ取っても最終的な目標は俺と違う。
「お前が鼻息荒くしてると大抵不純な動機が透けて見えるから気をつけたほうがいいぞ」
 要するに、女たらし。
「別にいいだろ? 俺って誰から見られてもそういう感じだし、俺と付き合うような女の子もそれを承知してる」
「間違いだって否定できないからタチが悪いよな、その理論。とても真似する気は起きないけど」
「そのままでいいだろ、お前は。世界が俺みたいなやつばかりだと、崩壊する」
「……なんだろうな、せっかくの格好いい台詞も言ってるのが伊織だと思うとがっかりというかなんというか」
「ああ、そうだな。だったらそのがっかりに費やした時間を返してもらおうか」
「それはむしろこっちの台詞だな」
「お前、頼みごと受けすぎて、過労死とかすればいいのにな」
 伊織の言葉を聞いて、脳内で今のところ受けている頼みごとを整理していく。……うん、ここからとんでもなく面倒そうな案件でも引っ張り出されない限り、問題なくこなせるな。
 そもそも、無理が出るようなことはなるべく避けてるしな。俺だって、そこまでお人好しじゃない。
「安心しろ、もしそうなったらお前にも押しつけてやるから」
「いらねーよ」
「それも問題ない。きちんと女の子とお近づきになれそうなのは避けてやる」
「余計ダメだろ、それ。いや、まぁ、実際お前なら心配ないと思うけど、一回助けてやると次から助けてくれるのが当たり前になるやつがいるからなぁ」
「そうならないように、きちんと対価をもらってるんだろ? いざとなれば逃げれば問題ない」
「責任感のないやつだって思われても知らないぞ?」
「少なくとも、そういう事態は大抵俺に責任はないし、責任感ってもんは自発的に持つもので、他人に押しつけられるもんじゃないんだよ」
「そりゃそうだ。それがわかってるなら、俺が言えることはなんもねぇわ」
 萩原伊織、我ながらできた友人だと思う。もっとも迷惑かけるより迷惑を被っている方が現状多いけれど。
「ま、謎の女の子に関してはおいおい見つけ出すさ。借りはきちんと返してもらわないといけないしな」
「その一言がなければ、完全な良い人……なんだけどなぁ」
「この一言がないと寄生されることが多々あるんだよ」
 とりあえず、まぁ、ほっとけ。ってことで。

「済まんな。丸戸。毎回、毎回手伝ってもらって」
「いえ、風邪じゃあしょうがないですよ。また何か手伝えることがあれば、お手伝いしますんで。お疲れ様です」
「おう、また頼むわ」
 放課後、講演会の準備を手伝わされるも、予告通り一時間ほどで終了。こういう内申稼ぎもきちんとやっている。そのまま帰ってもしなければいけないことがないんだから、時間の使いかたとしてはそんなに悪くない。
「だから、追い込み過ぎたらダメだってあらかじめ言っておいたじゃないですか。時間がないのはわかってますけど、こうなったら元も子もないじゃないですか」
「仕方ないだろ。普通あんなにメンタルが弱いなんて、誰も思わない。それに稽古の時間がなくなればそれこそ意味がない」
 ずらーっと椅子が並べられた講堂から廊下に出ると、何やら口論をしている二人組がいた。しかも、片方は知り合いの先輩だ。
「先輩、どうかしましたか?」
「あ、丸戸くん。え、っと……こんにちは、かな?」
「どうしたんですか、こんなところで口論なんて」
「部長、どうせなら……」
「アホか、こんなこといくらなんでも頼めるわけないだろ」
 なんだか、トラブルの匂い。けど、もうちょっと声を抑えたほうがいいと思う。
「何か、困り事ですか? よろしければ、相談に乗りますよ?」
「ほら、向こうもこう言ってるじゃないですか」
「あ~、うん、丸戸くん。気持ちは嬉しいけど、私だって頼っていいラインとダメなラインはきちんと把握してるつもりだ。それに今回ばかりには君にどうこうできる話じゃない。もちろん、万策尽きたとなったら相談することはあるかもしれないけれど」
「なるほど、俺も万能じゃないですし、これは無理っていう頼みごとは基本的に断るスタイルですから。先輩がそう仰るならきっと俺には無理なんでしょうね」
「そういうことだ、丸戸くんに頼るのは諦めろ」
「え~、結局振り出しじゃないですか。一体どうするんですか、これ」
「こういうことはよくあることなんだよ。なんとかなるし、してみせるさ」
「それじゃあ俺はこれで。どんな難題でも相談くらいは乗りますんで、心の隅っこには置いといてくださいね」
「ああ、なるべく頼らないようにするよ」
 なるほど、演劇部はなんかあったみたいだな。部長って言ってたくらいだし部活関係なのは間違いないだろう。それにあの焦り具合、なんだか結構大きな案件っぽい。君主危うきに近寄らず、だ。取り敢えず一縷の望みをかけて、気分転換も兼ねて図書室に行ってみよう。新刊、結局買えなかったし。

「永井さん、どうもこんにちは」
「あら、丸戸くん。まだ返却されてないわよ?」
「うわ~、流石ですねぇ。こっちの考えを予測しているとは」
「そりゃあ、丸戸くんは図書室の常連さんだからね」
「お世話になってます。でも、そうか……わかっていたけどないかぁ」
「大人しく待ってなさい。今読んでる人が返してくれたら取っておいてあげるから」
「うわ~ありがとうございます。じゃあ、お言葉に甘えて今は別の本でも読むことにします」
 実際、図書室の司書さんと仲良くなっておけばこういうメリットだってある。全員と仲良くする必要はないかもしれないけれど、知り合いが多いことにこしたことはない……と俺は思う。もちろん、ある程度の線引きも必要だ。
「さ~て、それじゃあ、どうするかね?」
 図書室っていうのは意外とレパートリーに富んでいて、昔の名作から現代の売れ筋まで取り揃えていたりする。
 とりあえず、今回はシェイクスピアでも読んでおこう。ロミオとジュリエットとか、色んな演劇とかでよく使われてるし、一度読んでみるのも悪くない。こういうのは大体がその日の気分。一期一会。いい言葉だ。

「まもなく下校時間になります。生徒は速やかに下校しましょう。まもなく下校時間になります。生徒は速やかに下校しましょう」
「うおっ!」
 当然のことだけど、一冊読み終わらず。三百ページをゆうに超えるシェイクスピア全集は半分ほど読んだところでタイムアップとなった。持っているそれを、棚の元の位置に戻して、鞄を置いたままにしてある教室に戻らないと。
「ん?」
 と、そこで足を止める。図書室のテーブルの上に忘れ去られたであろうノートが置かれていた。手にとってみれば、深崎沙由佳と丁寧な字で名前が書かれている。
 ああ、学年一位を守り続けている例の彼女か。
「永井さん、深崎沙由佳って結構ここに来てたりするんですか」
「そうね~実際、頻繁に図書室には来てるけど、彼女ずっとノートを広げて勉強してるみたい。それがどうかしたの?」
 事務作業の傍ら、永井さんはきちんと答えてくれた。
「いえ、その彼女のノートが机に放置されているので、どうしたものかと」
「忘れ物は職員室でしょ。面倒臭いなんて言わず、届けてあげなさいな」
「いや、それは別に問題ないですけど……」
 職員室は、三階。俺の教室も、三階。鞄を取りに行かないといけないんだから、ついでに職員室に寄ったって大した手間じゃない。
「ノートの中を覗いたらダメだよ?」
「いや、わかってますって。でも、やっぱり気になるじゃないですか。学年一位を守り続ける生徒がどんな勉強をしているのかとか」
「気になるなら、本人に訊きなさい。そういう方法はダメよ」
「了解です。じゃあ、これは職員室に届けておきますんで。さようなら」
「まぁ、丸戸くんならそんなことはしないと思うけれど一応ね。それじゃあ、さようなら」

 と、まぁ永井さんには言ったものの興味が惹かれたのは勉強の仕方ではない。大体、成績なら今のままで満足している。
 俺が気になったのはこれは本当に勉強用のノートなのかということだ。書かれているのは、名前だけ。彼女の性格は知らないけれど、間違えないように何のノートかぐらいは普通に書いておくだろう。十八九、ただのノートだろうけど、そう思わないようにしているのは何らかの刺激が欲しいからだろうか。
「失礼します。忘れ物届けに来ました」
 大層なことを言ったところで、結局良心が勝って中身を見ることなく、ノートは先生の元に届けられた。これで、先生が中身を確認していたら、俺はどれだけショックを受けるだろうか。
 本当に、お願いします。

「で、結局中を見なかったわけか、お前は」
「で、お前なら女の子の秘密が隠されているかもしれないノートを見るわけか。女の敵だな、がっかりだよ。というか、何勝手に人の椅子に座ってんだよ。そして勝手に弁当を広げるな」
「一つ前にある俺の席を使えばいいだろ? それと俺は確かに色んな女の子と付き合ったりしてるけど、別にフェミニストってわけじゃない。顔も見たことない、話したこともない、噂でしか聞いたことのない女の子にどうやって肩入れすればいいわけ? あと、昼飯くらいは好きに食わせろ」
「はいはい。話を戻すけど、それなら相手の女の子がお前の大好きな美少女だと思えばいいんじゃないか? 想像するだけならタダだし、きっと面白いぞ」
「それは認める。声優とか、料理人とか、小説家とか、科学者とかアーティストみたいな、あんまり表に顔を出さない職業だとなお素晴らしい」
「……最近の声優って結構顔出ししてると思うぞ? というか、女性声優に限って言えばもはや顔出し前提じゃないのか?」
「それなんだよなぁ。夢が壊れる、とまでは言わないけど想像の余地を残しておいてほしかった」
「そもそも声優に見た目の良さを求める方が間違ってる……つーか、今回の場合は相手はただの学生だ。確認しようと思えば、確認できるだろ」
 学生が美少女学生になったところで大した意味合いの変化はない。というより、学生以外にわかりやすい属性がないなら単なる美少女で十分だ。
「やだ、夢が壊れたらどうしてくれる。美少女で、学年一位の才女。けれど、それゆえに周囲からは孤立してしまう……そんな落ち込んでいるところに颯爽と駆けつけるのが、俺だ」
「うわ、ほんとこいつ何言ってんだろう」
「けどまぁ、孤立してるっていうのはあながち間違いとは言い切れないんだよ」
「へぇ、わざわざ聞いて回ったのか、大層なこった」
「だから、単なる推測だよ。ずっと学年一位を守り続けているのに、全く話に出てこない。他の女の子と話していて深崎沙由佳って名前が出てきたことはないし、その名前に触れるのは定期テストの結果発表のときだけだ。だから――」
「そうやって話題にあげてくれる人がいない以上孤立していると考えるべきだ、か」
「ま、そういうこと」
 伊織の話は正直なところ、だから何、で片付けても問題はない。日常で語りうる、些細な世間話の一つに過ぎない。会話に出てこないということは、別にいじめられているわけでもないのだ。関わる必要はないし、仮にいじめられていたとしても、何もすることはないだろう。よしんば救えたところで、俺たちのいないところでまたいじめは起きる。女子間のいじめってねちっこいしな。
「興味ないな。ぶっちゃけノート拾って届けてあげたとか貸しにするのも悲しくなるレベルだ」
「同意見だな。女の子なら間に合ってるし、わざわざ話しかけてそのクラスの人間関係に波立たせることないだろ」
「うわ、自分みたいな人気ある奴が一人ぼっちに話しかけたら周囲の女の子が嫉妬してしまうなんて考えてる痛いやつだ」
「そこまで自意識過剰じゃねぇよ。って、ん?」
 伊織は何かに気づいたかのように教室の入口に目を向ける。
「どうかしたのか。気になる女の子でも視界に入ったか?」
「いや、なんか視線を感じたというかなんというか。多分気のせいだろうさ」
「自意識過剰だな。ファンの子が見てるとでも思ったのか?」
「そういうんじゃねぇよ。なんつーか、あくまで遊び友達感覚の付き合いだからさ、遠目から見守るような健気さを持ってる女の子との付き合いはねぇな」
「陰から見守るって、健気じゃなくて重い人だろそれ」
「愛情表現は人それぞれなんだ」
「完全に女の子が見ていたって仮定だけど、そもそも気のせいだったっていうのも、あるいは男だったっていう仮説も当たり前のように存在するからな?」
「やめろ、夢が壊れるだろうが」
「夢多き人間だな。一個くらい壊れたって何の問題もないだろ?」
「大事なもんなんだよ。それに責任とか取ってくれんのか?」
「冗談だろ。その程度で壊れちまう夢なら、自己責任で見てくれ」
「へいへい。ところで、飲み物買いに行くけど、どうする?」
「缶コーヒー」
「オッケー」
 伊織にお金を握らせると、素直に教室を出て行く。中間テストの結果から解放されている教室は、どこか弛緩していた。頭痛の種になりかねない期末テストは当分先のことで、誰もがその存在を忘れているだろう。
 コンビニで買ったパンはそこそこ美味しいし、することがないからって文句なんてあるはずもない。クラスメイトたちは雑談に興じており、心地いい猥雑さが教室には溢れている。
「丸戸くんっ! は、は、話があります!」
 と、それらを吹き飛ばすような大声が教室に響く。静まり返った級友たちはこのクラス内で唯一の丸戸性を持つ俺へと視線を向ける。けれど、俺の周りに今しがた話しかけてきたような生徒はおらず、向けられた視線にも知らないとしか返すことができない。
 周囲に目を向けると、入口付近で飲み物を買いに行った伊織がなぜか立ち往生していた。そのまま右手で首筋を掻いて(伊織が困ったときにする、癖みたいなものだ。指摘はしていない)
「え~、っと勘違いしてるようだけど、丸戸くんはあれ」
 そのままちょっと身体をどけて、まっすぐ俺の方を指差した。
「「あっ」」
 俺と伊織とを間違えたおっちょこちょいな人物の姿を確認して、こんなこともあるもんだなぁと正直驚いてしまった。
 なぜなら、何の目的かは知らないが、俺を探していたのは先日、本を譲ってあげた女の子そのものだったから。
 ……こういうテンプレートみたいな再会の仕方はどうなのだろうか、現実として。

「え~っとその、とりあえず、先日はどうもありがとうございました」
「ううん、気にしなくていいよ。えっと……」
「2-Aの深崎沙由佳です。丸戸直人くん……でいいんだよね」
「そう、それであってる。そっちはあの、学年一位を独占し続けてる深崎沙由佳でいいんだよね」
「そんなこと、よく知ってるねぇ。あ、すいません。ブレンド一つ……丸戸くんは何を頼むの? 私のおすすめはブレンドなんだけど」
「じゃあ、同じもので」
 目の前で快活に話す女の子は、俺の想像とはちょっと違った。書店で会ったときは、恥ずかしがり屋なのかと思ったし、伊織の話を聞いているとおとなしめの子なのかと思った。
 もっとも、それが同一人物だなんて思いもよらなかったけど。
「それで、どうして丸戸直人を訪ねてきたの? わざわざ、教室まで」
「もちろん、本を譲ってくれたお礼に……」
「あれ、俺の友達で萩原伊織っていうんだ。よろしくしてあげてよ」
「そ、そうなんだ。うん、わかった……じゃなくて、ちゃんと丸戸くんに言った、よ?」
「なら、今度からは退くのを待ってから声かけてくれる?」
「……丸戸くんって意外と意地悪な性格してる?」
「まさか。俺は普通だよ」
 どうやら、俺が色々頼み事を聞いてくれる便利な人、という認識はないみたいだ。だったら、丸戸直人と深崎沙由佳の接点なんてもう一つしかない。
「一応、本当にお礼を言いに来たんだけどなぁ、私」
「少なくとも、俺は深崎に名前を知られていないはずだけど?」
「聞いたんです、人から」
「じゃあ、どこから聞いたんですか?」
「ほら、あの書店、丸戸くん結構利用してるじゃない? そこの店員さんに教えてもらって……」
「あそこ、個人情報晒すようなことはしてないけど?」
 これで、言い訳できなくなったのか、深崎は口をつぐむ。考えるような仕草をして、首を傾げる。
 ひょっとしたら、これは俺の期待通りの展開なのかもしれない。それは、それで、ありだろう。
「あの……不躾な物言いだけれど、丸戸くんって口は固い方?」
「それを聞かれて固くないって答える人はいないけど、まぁ、固い方だよ」
「あと、人の夢を鼻で笑ったりする人?」
「本人が後ろめたさを感じていないことなら、笑わない」
「それじゃあ、話してしまった方がいいのかな……?」
 ぶつくさと、深崎は何やら呟いている。彼女の口から一体何が語られるのか、正直なところ俺はほんの少しわくわくしてしまっていた。学年一位を守り続ける優等生が必死になって隠しておきたい秘密。それだけでも十分に興味を惹かれる。
「うん、よし。決めた。それじゃあ最初に丸戸くん、昨日はありがとうね」
「あぁ、はい。大したことじゃないから、気にしなくてもいいよ」
「ううん、私からしてみれば、大したことなの。あれを見られたなら、私何をしでかすか、わからない」
「へ、へぇ……」
 昨日、図書室で偶然見つけたノート。俺が職員室に届けなかったとしたら司書の人がしていたんだろうけれど、中身を見なくて本当によかった。それくらい、深崎の表情は、マジだ。
「それで、今朝先生に落し物だって渡されたときすっごく驚いたの。思わず、誰が拾ってくれたんですかって聞いて、2-Eの丸戸くんだって教えてくれて」
「何やってくれてんだよ、その先生……」
「ちゃんとお礼はしておけって言ってたから、今日はそのつもりで来たんだけど」
「まさか、そのお礼って不良とかがするようなお礼じゃないよな……?」
「それはもう、丸戸くん次第かな?」
「本当は怒ってるんだろそうなんだろ!」
「冗談だよ冗談、丸戸くんに見てもらいたいのは……」
「見てもらいたいのは……?」
 きっと……あのノートのことなんだろうけれど、深崎の様子はどこかおかしかった。迷っているのか、一向に取り出そうとしない。
「コーヒー美味しいね」
「うん、まぁ、そうだな。深崎は、ブラックで飲むんだ?」
「そうだね。眠気覚ましに、よく飲んでるから」
「何やってるか、知らないけど頑張ってるんだ」
「うん、好きでやってることだから……」
「そっか、やっぱり話す気にはなれない?」
 深崎の、頑張っていることは少なくともおおっぴらにしたいことではないのだろう。例えば、荒唐無稽なこと。
 誰もが志すことはあっても夢を掴むことができるのはごく少数。
 諦めてしまったことを正当化するために必死になっているそれを笑うやつがいる。
 だからこそ、深崎はそれを口にできないのかもしれない。
 あるいは単純に俺という人間が信じるに値しないと思われている場合。
 それはもう、どうしようもないし信じさせる時間もないだろう。
「違うの。丸戸くんのことは、信頼してるって言葉は嘘くさいかもしれないけれど、信頼してもいいかもって思ってる」
「なら、話す必要なんかない。幸い、俺たちまだ二年だし、時間ならたっぷりある。じっくり考えて、話してもいいかも、じゃなくて話してもいいってなるまで時間を置けばいいよ。相談くらいないつでも乗るからさ。美味しいお店教えてくれてありがと。今日は俺が奢るから」
「あ……」
「勇気を持って、かどうかはわからないけど、話しかけてくれてありがとう。楽しかったよ」
「あ、あの……丸戸くん」
「何? どうかしたの?」
「……見せたいものが、あるの」
 覚悟を決めて人の目つき。きっと断るなんて選択肢はない……んだろうな。

「ああ、あははははは……」
「どうかしたの、丸戸くん?」
「いや、なんでもない。なんでもないから……」
 こういう偶然も現実には起こりうるんだなと思った。だって、深崎が見せてくれたスマートフォン。その画面に映し出されていたのは、白湯の飲み馬という俺がよく訪れている個人サイトだったから。
 つまるところ、深崎沙由佳の秘密というのは小説を書いている、そういうことなのだろう。
「このサイト、知ってるの?」
「いや、知らない。初めて見たけど、これがどうかしたの?」
「……そっか、えっとね、このサイトで小説を書いてるの。私が」
「つまり深崎、沙由佳。だから白湯の飲み場ってこと?」
「あ、あー、それを言われるとなんだか恥ずかしいね。自分でも安直なネーミングだと思ってるから、余計に」
 そう言ってはにかむ深崎の裏で、俺は冷や汗をかいていた。とっさにまずいと思って知らないなって言ってしまったけど、嘘がバレたらどうしよう。意を決して、話してくれたことを既に知ってるなんてなれば、あらぬ誤解を招きかねない。
 加えて、白湯の飲み場と深崎沙由佳はそうだったら面白いだろうなぁレベルの推測とはいえ、察していたのだから誤解を解くのも手間がかかりそうだし、黙っておく方が賢明だ。
「で、俺はどうすればいいのかな?」
「あぇ、ぇ、えーっと、その……」
「ああ、困らせるつもりはないから……普通に、読んで感想を言えばいいのか?」
「う、うん。それでお願い、します」
 歯切れの悪さをどこか感じつつ、何度も読み返した文章へと目を落とす。相変わらず、平易な文章で読みやすい。展開はしっかりしていて、やや登場人物の心情がわかりにくいもののやはりネット小説としては十分すぎるほどの出来だ。
「あの、どうですか、読んでみて」
「いや、普通に面白いと思うよ。続きが気になるような伏線がたくさん散りばめられてるし、文章もしっかりしてしているから章ごと単体として読んでも十分楽しめる」
「そう、ですか……ありがとうございます」
「……?」
 どうにもリアクションが薄い。表情を伺うに褒められ慣れていないというわけでもなさそうだ。浮かない顔をしているのは別に理由があるからなのか?
「面白いものを読ませてくれて、ありがとう。次も、期待してるから」
「ありがとうございます。私、こうやって小説書いているんですけど、実際に感想をもらうのは初めてで、こうして褒めてもらって、すっごく嬉しくって……」
 と、いきなり、深崎の頬を涙が伝う。
「お、おい何も泣くことはないだろっ」
「あれれ、おかしいな。ううん、大丈夫。大丈夫だから」
 慌ててハンカチを取り出したが、遠慮されてしまう。言葉の通り、褒めてくれたことが嬉しかったからでは、ないのだろう。だったら、どうして彼女は泣いてしまったのか。
 結局俺は、彼女が落ち着くまで、周囲から向けられる奇異の視線に耐え続けなければならなかった。

「昨日はごめんなさいっ! 私、ああいうのは初めてで、そのせいで丸戸くんに迷惑かけちゃって……ほんとにごめんなさいっ」
「いや、教室で頭下げられる方が……何でもない」
 周りのクラスメイトたちも食事の手を止めて不躾な視線をこちらに向けている。それが、丸戸直人が女の子を謝らせているなのか、深崎沙由佳が男の子に謝っているなのかは判断に迷うところであるが……
「あの、やっぱり迷惑だったかな? こんなふうに押しかけちゃって丸戸くん、私、やっぱりこういうの、ダメだなぁ……本当にごめんね、丸戸くん」
「あ、い、いや……深崎、さんが悪いわけじゃないから、あれは……」
「ごめんね……ほんとに、ごめんねぇ……」
 ますます俯き度合いが大きくなり、周囲がざわつき始める。具体的には、丸戸くん女の子泣かしちゃったの、である。やめてくれ、そういうわけじゃ、ないんだ。そもそも、これって……
「み、深崎さん……ちょっとこっち来て」
「あ、おい、直人どこ行くんだよ!」
「すまん、伊織。適当に誤魔化しといてくれっ」
「な、直人っ、おい、少しくらいは説明していけ」
 女の子の手を取って、どこかへ逃げる。ロマン溢れる行動に、教室はにわかに沸き立つ。まぁ、実情がどうあれ、暇を持て余している学生連中からすれば、騒げる口実を探しているだけだ。
 される側は、これっぽちも楽しくないし、面白くもないけどな。
 手を引いて廊下を歩いていると、時折不躾な視線を向けられるが、全部無視。そのまま、普段は誰も使わない大教室に逃げ込む。
「丸戸くん、いたいけな女の子をこんなところに連れてきて、一体、何をするつもりなのかな?」
 その、連れてこられた女の子はさきほどまでの泣き声はどこへいってしまったのか、ケロリとしている。
「二人きりになったら、いきなりそんなんですかそうですか……」
「謝った相手に、呆れられるってなかなか新鮮だよねぇ」
「もはや開き直った!」
「ごめんねぇ、丸戸くん。みっともないとこ……見せちゃって、ほん、とにっ……ごめん、ねぇ……」
「何を信じればいいんだ、俺は!」
 本当に泣いているように見えてしまった。女の子って怖い。
「大げさだってばぁ……これくらい、誰にだってできるよ?」
「やめろ、クラスメイトの女の子をまともな目で見れなくなってしまう。……それで、どうしてこんなことを?」
「どうして、ってどういうこと? こんなこと、ってどんなこと?」
「とぼけるのはやめてくれ。話が進まなくなる」
「じゃあ、私のために、なんでもしてくれる?」
「なんでもは無理だな。けど、俺にできることならしてやれる」
 出会って間もないなんてことは、関係ない。単にそんなに仲良くないから、仲良くなっていないから。ギブアンドテイク。実にわかりやすい。
「丸戸くん、良い人だねってよく言われるでしょ」
「おお、深崎。よく知ってるな、クラス違うのに」
 気まずそうに、深崎は目を逸らす。まるで――
「いい年こいて、公園のブランコで靴飛ばしに興じるおっさんを見る目みたいだぞ」
「そんな具体的な例を出さなくてもいいから」
「まぁ、自覚はあるよ。良い人ってことは性格が良い人であり、どうでもいい人ってことでもあるからな」
「別に、そこまで言ったわけじゃないけれど……」
 俺がどうでもいい人に思われたところで、そう思われたくない人に大切な人だと思ってもらえればそれで十分だ。大体、クラスに友人があまりいないとのもっぱらの噂の深崎沙由佳に言われたくはないのである。
「丸戸くんこそ、失礼なこと考えてない?」
「ソンナコトナイデスヨ」
 じとー、と深崎が目を細めてこちらを睨む。
「本当に、他意はないのね?」
「そんなことより、その演技はなかなか上手いと思うぞ」
「どうもありがとう。まぁ、やってみろと言っておきながらできないというのは申し訳なくて、ね」
「? どういうことだ?」
「なんでもないよ、丸戸くん」
「さいですか……それで、深崎はどうして俺をここに連れてきたの?」
 本当、いい加減にしてくれないだろうか。ご飯を食べる前に、昼休みが終わってしまう。
「……っ、べ、別に大したことじゃないの。た、ただ…あの、昨日泣いてしまったこと、と……あのサイトのこと、忘れてほしいの」
「え、っと。サイトのことも忘れてもいいの?」
「それはダメ! え、その……サイトは、誰にも言わないで」
「要は、昨日深崎が泣いたことは忘れて、あのサイトを、深崎が書いていることを内緒にしておけばいいんだな?」
 混乱しそうになるのを堪えて、一旦整理する。というか、もう既に話してしまった相手がいる以上、この条件にしないといけない。あ~、いちいち律儀に話す必要はなかったかなぁ……。伊織だから、口を塞いでおけば大丈夫だろう、多分。
 そんな綱渡りみたいな嘘に内心苦笑いを浮かべつつ、深崎の様子を確認する。
「ええ、それでお願い」
「ん、わかった。それで、その約束ついでなんだけど、一ついいか?」
「まぁ、約束を守ってもらうわけだし……別にいいよ」
「その、なんだ、深崎が小説を書きはじめるきっかけってなにかあるのか?」
「私個人に関する興味ってことでいいかしら、その質問の意図は」
「平たく言えば、そういうことになるかもしれないし、ならないかもしれないな」
「そういうどっちにもつかない曖昧としか言いようのない態度、モテないと思うよ。いつだって女の子は素直で、真っ直ぐな気持ちを求めてるんだから」
「疲れちまうだろ、渡す方も渡される方も。真っ直ぐなものは、軋轢を生むし、色んなものとぶつかっちまう。しなやかに曲がって、それでも折れない。そっちの方がずっと、ずっと賢い生き方だ」
「……まぁ、ありといえばありなのかもね。それで、私の創作秘話だけど、別にそんな大したことはないよ。ただ単に、表現する手段が文章だっただけ。ううん、かっこつけた言い方になっちゃったね。なんていうか、書きたかったから書きたかっただけ。たまたま文章だっただけで、絵がうまかったら漫画でも描いていたかも……」
「ということは、深崎は絵が下手なんだな。覚えておこう」
「ちょっと、そういうところだけ抜き出すのはやめて」
「別にいいだろ」
 深崎の回答が思った以上にまともだったから、こちらの考えを挟む隙間がなかっただけの話だ。
 例えば、一攫千金を目指して、とかだったら普通に投稿サイトに上げろだったり出版社に応募しろみたいなアドバイスが出てくる。あるいは、夢見すぎ、やるなら死ぬ気でやれみたいな忠告もすることができた。だけど、勝手に湧き上がってくる欲求に従っているだけならば、自作サイトに細々とやっているだけならば、どうしていちいち何かを言わなければいけないのか。
 個人の趣味にケチをつけるようなくだらない遊びは、小学生のころには卒業している。
「そう……ネットの海を荒らしまわって、過去の黒歴史を晒し上げることに比べたら些細なことだ」
「え~っと、丸戸くん、そんな性格の悪いことしてたの? あと、私がネットにあげたのはあれだけだから調べても無駄だからね」
「それこそ、面白くないな。黒歴史はちゃんと上げておかないとアクセス数稼げないぞ?」
「炎上前提の人気作家じゃあるまいし……そこまでみんなに見てもらいたいって思ってるわけじゃないから」
 ちなみに、他人の黒歴史を晒しあげたことはない。そんなにガキでもなくなったし、ガキのころはそんな知識もなかった。こう、色々と噛み合わなくてよかったと思っている。危うく黒歴史を作ってしまうところだ。
「そうだろうな」
「……丸戸くん、それってどういうこと?」
「あ、あ、あ~いや~、深崎さんってそういうことあんまり好きそうじゃないイメージだったから、ははは……」
「そういうことって、どういうこと?」
「あ~、ほら、アクセス稼ぎが目的じゃないって、とも……あんまり、クラスの人と関わろうとしないことから察することができるから、ね」
「どうして、丸戸くんが私のクラス事情を知ってるかはさておき、まぁ、確かに交友関係に積極的でないことは認めるよ」
「ちなみに、ソースは俺の友達。仲良くする必要はないけれど、よくしてやって。二度目だけど」
「言っている意味が、ちょっとよくわからないのだけど」
「ん~? 例えば、気を使って話しかけたり、遊びに行ったりする必要はないけど、あいつ調子に乗りそうだし……なんか、真剣に困ってたら話ぐらいは聞いてやってほしいかなってぐらいの感覚。わかる?」
 普段の振る舞いに関しては自業自得で庇いようがないけど、本気で頼られたら迷いなく力を貸してもいい、そんなふうに思っている。向こうが、どうかはさておき。
「……それって、普通に仲良くしてやってくれって言ってるより、ずぅぅっとハードルが高いって、丸戸くん気づいてる?」
「別に、必ず力になってくれって言ってるわけじゃないさ。話を聞いて、面倒だったり無理だったりしたらそれこそ、関わらないくていいさ」
「案外、丸戸くんって冷たい人だったりするの?」
「そうか? いつなんどきでも助けてくれる、なんて考えでいるやつの方が間違ってると俺は思うね。助けてくれる……かもしれない、相談に乗ってくれる……かもしれないぐらいの認識でいいんだと思うよ」
「やっぱり曖昧な人なのね。要するに、助けるも助けないもそのとき自分の余裕があるかないかで決めるってことでしょう? いざってときに優柔不断になったりするんじゃかな?」
 優柔不断とは、随分な評価である。基本的に、自分が最優先で、今は余裕があるから周りに目を向けられるってだけだ。ましてや、大切な他人が複数人できるなんて想像できない。
「まっ、いざというときのヘタレ注意報は心の隅っこにでも置いておくよ。そういうことだから、よろしく頼む」
「……まぁ、別にいいけれど」
「別にいいけれど、で済まされるあいつが不憫でならない」
「ところで、丸戸くんってどうしてそんなに萩原くんのことを気にかけたりするの?」
「唐突な話の転換だけど、そんなに大した話じゃないさ。面白い話ではない」
「そう? ならいいけど。……言っておくけれど、話のネタにしようなんて思っていないからね」
「実際話のネタにする気満々だったろそうなんだろ」
「丸戸くんが、どういう人間かを知るための参考にはしたかもしれないね」
「そっちの方がやめてほしいんだが、正直」
 まったく、小説家っていうのはこうも常にネタを探しているのだろうか。だとしたら、読者は文章を書いた人間と会わない方がいいな。
 読者と作者の蜜月関係なんて、現実を挟めばあっさりと崩壊してしまうだろう。
「安心して。私は自分の血肉を切り売りし面白いものを書いてまで評価されたいなんて思ってないし、そうすることで特定されることの方が怖いから」
「それ、評価されたくなったら血肉を切り売りしてでも面白いものを書くって言ってるように聞こえるんだが」
「丸戸くんだって、わかってるでしょ? 私、そこまで目立とうなんて思ってないから。だから、あのサイトで書いてるわけだし……」
「いや~、わかんないぞ。人生何が起こっても不思議じゃない」
「なら、丸戸くんが優柔不断のヘタレっぷりを晒しても、なんら不思議じゃないね」
 痛いところを突かれた。
「あーうん、まぁ、そういう考えもできるよなぁー」
「あははは……考えが柔軟なんだね」
「実は結構責めてるだろ、それ」
「全然責めてないから、安心していいよ?」
「あんまり信用できないな、それだと。じゃあ、俺はそろそろ教室戻るから、またな」
「あ、ちょっと……」
「なんだよ?」
「約束忘れないでね?」
「わかってるって、泣いていたことは忘れる。サイトの運営者は誰にも言わない、だろ?」
「あの、そっちじゃなくて……」
「え? 俺、ほかに深崎と約束とかしてたっけ?」
 記憶にない。いや、これはよくある鈍感主人公なんかではなく、本当に。会ったことはほんの数回で、まともに話をしたのは今日が初めてではないだろうか。
 だから、そうそう忘れてしまうはずが、ない。
「なんてね、ちょっぴり動揺したかな? うん、その約束は、ちゃんと忘れないでね」
「わざわざ忠告ありがと――って、おい」
 鐘が鳴っていた。
 これまでは昼休みで、ということは昼休み終了を告げるものであり、平たく言えばご飯を食べ損ねた、ということである。
「う、嘘だろ……」
「あら、その様子じゃ、お昼ご飯、食べられなかったみたいだね」
「ま、まさか、お前っ!」
「まぁ、私も食べてないんだけどね」
「デスヨネー」
 なんでこんな無駄に時間を使ってしまったんだ……どういうことだか、説明してほしい。切実に。

「えっと、丸戸くん。はい、これ返すね。凄く面白かったよ」
「あれ、『三日目の粉雪』じゃん。かなり売れてる恋愛小説」
「伊織、相変わらず、売れ筋には詳しんだな」
「直人から借りたってことは、あんまりこの作者読んでないの? なら、ほかにもたくさんおすすめあるよ? なんらな俺が貸すからさ、沙由佳ちゃん」
「シカトかよ!」
「あははは。……えっと気持ちだけ受け取っておくね、萩原くん。なんだか、萩原くんとはあんまり趣味が合わなさそうな感じだし……」
「そりゃ、残念。それにしても、最近、沙由佳ちゃんよくこっち来るようになったね。心境の変化でもあったの?」
「単に小説の貸し借りしてるだけだよ。というか、お前は黙って弁当でも食ってろ、行儀悪いだろ」
 とはいっても、伊織はものを口に入れたまま喋ったりはしていないので、そこまで行儀悪いとは言えず余計に腹立たしい。
「人の勝手だろ? それに、可愛い女の子と話す機会なんだからちょっとくらい大目に見ろ」
 いつも通りに歯が浮くような発言のあと、俺に「こういう女の子は褒め言葉に弱いんだよ」と耳打ちをして、非常にどうでもいい知識を披露してくれた。
「……うん、ありがとうね。萩原くん」
「効果は薄いみたいだな、伊織」
「おい、本人の前でそんなこと言うなよ」
「深崎もそんな見え透いた口説き文句にいちいち反応する必要なんかないんだぞ? するだけ時間の無駄だ」
「それでも丸戸くんはきちんと対応してあげるんですね」
「優しいとか全然そんなんじゃないからな。相手してやらないと鬱陶しく纏わりつかれるだけだから、付き合ってやってるだけだ」
「丸戸くんって優しいんだね。私だったら、曖昧に笑って誤魔化すくらいしか、できなさそうで……」
「っっとぉ! ごちそうさまぁっ! 沙由佳ちゃん、今週末なんだけど、一緒に遊びに行かない?」
 いつの間にか、弁当を食べ終わっていた伊織が深崎の手を取り遊びに誘っていた。こいつ、本当に手が早いな。
 深崎はというと、困った顔をしてこちらを見ている。
「はぁ……あほか、伊織」
 四限後でそのまま机に置いておいた教科書を丸めて、伊織の頭を引っぱたく。
「っ、ってぇ。おい、直人何すんだって、いってぇ……二度も殴るな、二度も」
「殴ってない、ひっぱたいただけだ。それに、嫌がってる女の子に無理やり迫るなんてお前らしくないぞ」
「無理やり迫るってなんだかエロい響きだよな……」
「丸戸くん……?」
「いや、絶対違う完全に俺のせいではない」
「というわけで、ごめんなさい萩原くん。私、週末は予定があるから一緒には遊べないの」
「ん~まぁしょうがねぇか」
「勝手に解決しないでくださいお願いします……」
「そういうことだから週末は開けておいてね、丸戸くん」
 はい? 何それ聞いてないんだけど。

「今日はどうしても頼みたいことがあって呼んだんだけどなんかごめんね」
「別に、大したことじゃない。喫茶店で奢ってもらえて……」
 一瞬、彼女が後生大事に抱えている茶封筒に目を移してから、
「面白い小説が読めるなら週末の憩いには十分だろ」
「丸戸くんハードル上げすぎ」
「ああ、やっぱりそういうことなんだ」
「うん、そういうこと……なの。生で初めてを、丸戸くんにあげるの」
「生原稿を初めて読んでもらうってことだよなその言い方ってわざとだよなぁ! ……誤解させるような言い回しは避けてくれ。さっき横を通った店員さんがぎょっとした表情でこっちを見てたぞ」
「私なら、大丈夫だから……誤解する人たちのことなんか、放っとこ?」
「あの緊張してるのはわかるけどそういうのやめにしません?」
 露骨な生娘演技が一瞬でピタリと止まる。一体どれだけビビっているのやら。とはいえ書いたことがないからわからないけど、ひょっとしたら深崎にとって生の人間に見せるということは勇気のいることなのかもしれない。
「え、えっと、それじゃあ、お願いします」
 深崎が恥ずかしそうに差し出す原稿を、ペラリとめくっていく。
 小説の内容は青春群像劇といえばいいだろうか。仲良しグループが、ちょっとした夢のために力を合わせて頑張って、バカをやって、心を通わせる。けれど、仲間の内二人が恋に落ちていしまいグループの関係に亀裂が入ってしまう……という感じの話を書きたかったのだろう。 
 原稿に顔を寄せて、表情を隠す。浮かべてしまっているだろう、苦い顔を見せるのは忍びなかったから。
 一度感じてしまった違和感は最後まで読んでも解消されない。原稿の向こう側で期待に胸を膨らませている彼女へありのまま伝えることに躊躇いを持ってしまうほどに。
「…………」
「あの、丸戸くん。どう、かな? 読んでみての感想は」
 なるべく、気を使って、オブラートに包んで……
「え、っと。登場人物が、ちょっと多いかな。サブキャラとメインキャラの扱いを分けた方が物語としてはもっと映えると思う」
「でも、これは全員がメインキャラだよ?」
「それは分かってる。でも、ひとつの話でまとめるときは焦点を当てるキャラを絞った方がいい。個人的には、一言でまとめられるわかりやすさが必要かな」
「…………」
「あと、キャラの心情はもっと掘り下げるべき。青春群像劇なら、思春期特有のちょっとした悩みだったりを呆れるくらいバカみたいに真剣に考えるくらいがちょうどいいんじゃないかな」
「そっか、心情の掘り下げ……」
 ちらっと彼女の表情を伺って、様子を確かめる。緊張した面持ちで、膝の上に置いた自分の手をじっと見つめていた。
「狙いはわかるけど、人称は統一したほうがいい。三人称でもキャラの考えていることは書けるよ」
「……それって、まとめると書き直せってこと?」
「深崎が、俺の意見を聞いて、自分で読み直してみて、それで判断するべきことだと思う」
「丸戸くんは、どう思ってるの?」
「俺の意見はさっき伝えたけど?」
 深崎の目がすっと鋭くなる。睨みつける視線が、心を、縛りつける。
 沈黙の中に、喧騒が水滴のように落ちて波紋を拡げていく。無色透明な水槽の中に音が伝わるように。静かな夜には長針の動く音がやけに響くように。
 俺の耳が、聞こえているはずのノイズをシャットダウンしてただ、目の前の女の子の言葉を待っている。
「丸戸くんはどうしたらいいと思うの?」
「深崎が好きなようにすればいい」
「じゃあ、丸戸くんだったらどうするの?」
「小説なんて書いてない。書いたこともない。わかるはずがないだろ。それに……」
「それに……?」
「自分の思い通りの作品が、本当に面白いとは俺は思わない」
 期待通りの作品も、悪くないだろう。でも、期待を超えてこその物語だと。
 深崎の顔からは余裕が消えていた。
「丸戸くん、逃げてる。私のお願いから、ただ逃げてるだけ」
「俺の感想は伝えた。俺が書き直せって言ったところで、書き直さなくていいって言ったところで、それに左右されるなんてダメだろ」
 深崎沙由佳という物書きがどれほど本気に打ち込んでいるのかは、俺にはわからない。どれだけ彼女がプライドを持っているかわからないから、余計なことを言ってしまうわけにはいかないのだ。
「私が、どんな思いで……っ」
「どんな思いで書いたんだ? 俺は、言ってくれないとわからない」
「……丸戸くん。丸戸くんの判断を聞かせて?」
「俺は……この作品を広めようと思わない。書き直せるなら、書き直した方がいいと思う」
「……っ」
 深崎の全身が、テーブルを挟んでいてもわかるくらいに酷く強ばる。
 だって、読者に否定されたから。自分の創作物をおそらく初めて、顔を合わせた人間に、否定されたんだから。
「…………」
「っ、あ……あ、あぁ……」
 その言葉を受けた深崎は、半ば茫然自失としていて、それでもたかだか、一読者に否定されたにしては大げさな表情に思えた。
「あの、深崎?」
「……ごめんなさい。丸戸くん」
「深崎……」
 俺と目を合わさないように、ちょっと上を向いて、さっと立ち上がって逃げ出すみたいに、呼び止めることもできないくらい足早に喫茶店をあとにした。
 ほとんど手がつけられていないコーヒーの香りと、ほんのちょっとだけ濡れたテーブル、堰を切ったように騒がしくなっていく店内。
 残っているのは、それだけだった。

「なぁ、直人。何かあったのか?」
 まだ人の少ない朝礼前の教室には、カチカチとシャーペンの尻をノックする音が小さく残っている。
「…………」
「ここのところ、明らかにおかしいぞ。お前」
 ちょっと朝早く目覚めてしまって、ちょっと余った時間で予習をしているだけ。
 苛々して、ちょっと集中できていないだけ。
「……なんでもねぇよ」
「そっ、話変わるけど深崎さん学校来てないらしいな」
 ぼきっ
「……動揺したな」
「ちょっと……力が入っただけだ」
「へぇ、偶然だとは言わないんだな」
「偶然、ちょっと、力が入っただけだ」
「別に事情とかは、わかんねぇよ? だけどさ、悪いと思うところが少しでもあんなら謝っておいた方が楽だよ。仲直りの方法はいっぱいあるけど、謝って済むならそれが一番いいんだよ」
「……外すわ」
「おう、ゆっくり考えろよ。親友」
 うっせ。

「…………」
 がらんとした廊下。朝早くの学校に人通りなんてものを期待するのはちゃんちゃらおかしい。窓から外を眺めると、深崎との会話が自然と頭をよぎる。
『丸戸くんは、どう思ってるの?』
『丸戸くん、逃げてる。私のお願いから、ただ逃げてるだけ』
『私が、どんな思いで……っ』
 彼女がどんな思いで作品を書き上げて、俺に何を言って欲しかったのか、本人にしかわからない。
「じゃあ、どうしろってんだよ」
 耳障りのいい言葉を並べて機嫌を取れと言われれば、それは違う。ならば、深崎を傷つけていいことには、ならない。
 結局、編集者でもないんだから物書きとの付き合いかたなんて知らない。
「おや、丸戸くん。珍しいね、こんな時間に」
「……先輩も、珍しいですね」
 演劇部、部長。
「私は朝練があるからね。帰宅部の君と一緒にしてもらっては困る」
「そっすね……」
「浮かない顔だ……普段の君から考えたら珍しいね」
「まぁ? 俺も完璧超人じゃないので、悩みのひとつやふたつぐらいは抱えてますよ」
「やさぐれてるねぇ。わかりやすく」
「ないです。やさぐれてないです」
「そっか、なら相談に乗ってあげようかね。君に貸しをつけておくとのちのち便利だからね」
「先輩に借りを作るのはなんとく嫌な予感がするんですけど、ひょっとして狙ってたりします?」
 いくらなんでも都合がいいタイミングでの登場だ、多少は疑っておくべき。
「ないない。強いて言えば、私も考え事してたからかな? こんな時間にこんな場所をほっつき歩いていたのは」
「というわけです」
「いやいやいや、というわけです、じゃないでしょ。二人は幸せなキスをして終了よりわからないから」
「おかしいですね。これで伝わるはずなんですが……」
「そんな脚本書いてきたらやり直しだからね?」
「それです」
「何? 脚本に関する相談?」
「あんまり褒められた出来じゃない脚本にはどうやって口を出せばいいのかなと」
 回答者の先輩は渋い顔。え、そんなに難しい相談なんですかね?
「さぁ? 好きに言えばいいんじゃないの?」
「真面目な相談だったんですけど」
「何を言うかは内容によって変わる。言い方の問題はあるだろうけれど、ちょっと自分の思い通りにならなかったくらいで折れるならその方が幸せだよ」
「厳しいですね」
「そう? 創作の世界に身を置いたらこんなの当たり前だよ。これはこういう意図でやってんだ、だったらこうしろ、それはお前の主観だ、俺はこう思う、とかさ。挙句ライターに対する人格批判とかよくある話」
「聞きたくなかったです。うちの演劇部にこんな闇があっただなんて」
「まぁ、でも、一番大事なのは意見を交わすことだよ? 決して一方通行にはならない。指摘もするべきだけど、代案を出さないと」
「…………」
「身につまされる話だった?」
「いえ、全然役にたちました」
「そ、これで貸し一、だね」
 先輩はにやりと笑う。実に頼もしい笑みだ。
「この貸しが命取りにならないことを祈ってます」
 むしろ、逆。そうなるくらいに、彼女の役にたってほしい。そんなふうに思った。

「ただいま」
「おう、お帰り。なんかすっきりした顔だな」
「早退するからあとよろしく」
「決断はぇなぁ……ま、任せとけよ」
「さんきゅーな」
 荷物を手早くまとめて、教室を立ち去る。待ってろよ、深崎。言い過ぎた分の借りはきちんと返してやる。

「そもそも書きたいことが多すぎて、テーマを絞り込めてないんだ。だったら、最初はヒロインの回想から始めて、ある程度エンディングを予想させておく。視点は三人称のみに絞って、読者に心情の推察を促す。結末にたどり着くまでの道筋を何本か用意しておいて、ミスリードを誘いつつもきちんと伏線は張っておく。せっかくこんなにいいシュチュエーションを使ってるんだからラストはもう一度ここに戻ってくる。締めは一番最初のオチを踏襲してと……」
 まるで高熱に浮かされたみたいに指先がキーボードを叩いていく。こうすればいいんじゃないかって考えが、どんどん湧いてくる。深崎に面白い小説を書かせてみせる。
 俺の考えつくアイデアなんて、所詮素人のそれだ。そんなもんじゃ、作品を変えられない。俺の力なんてたかが知れてる。
 だけど、深崎は違う。少なくともネットで公開されているものは、確かに面白い。彼女には素養がある。
 俺の取るに足らないアイデアでも、彼女の目を通してならば、全く違うものに映るのかもしれない。数だけはある、俺の陳腐なアイデアが最高の文章を生むかもしれないんだ。爽快じゃないか、そんな奇跡みたいなこと。
 タイピングの速度がぐんぐん上がる。脳みそに無数のアイデアが浮かんでいく。とりとめもなく、まとめる気すら起きない有象無象のネタが。
 掃いて捨ててしまえる、小さな、小さなネタが。
 けど、たったひとつでいい。深崎沙由佳を唸らせて、納得させて、作品を面白くさせるアイデアがひとつでもあれば、それで十分なんだ。
「ふぅ……」
 勢いに任せた乱文もとりあえず一区切りついた。くだらない、空想の羅列。けれど、クリエイターにとっては、ひょっとしたら宝が眠っているかもしれない場所。
「さて……ここからだな」
 ここから、ただの乱文をアイデアをまとめたものへと昇華させる。鼓動が高まる。身体が熱い。
 わけがわからない。どうしてここまで自分が本気になっているのか。意味も、理由もわからないまま俺はひたすらに走り続けていた。脳内物質が、身体を叱咤激励する。走れ、走れと。
 高揚感と達成感の狭間で、終了を告げる鐘をエンターキーが鳴らすのを耳にした。

「よしっ、よしっ」
 プリントアウトしたそれを手にして、走り出していた。深崎がどこにいるのかも把握していないのに、走り出していた。外に出れば、太陽が昇っていた。どれだけ経ったかはわからないけれど、とりあえず明るい。夜じゃない。
 バカみたいなテンションを持て余して、アスファルトの上を駆け出す。行き先なんて、もう、決まっていた。

 いた。いた。いたいた。
 あの時と同じ場所に、あの時と違ってちょっと寂しそうに、あの時と似たちょっと悲しそうな表情を浮かべて、深崎沙由佳はそこにいた。
「深崎……」
 ちょっと言葉を溢すと、彼女はちょっと驚いたようにきょろきょろと首を振る。信じられないって顔をして、ちょっと後づさりをして、そして固まってしまった。
「あの時はごめん。言い過ぎたっていうつもりはないけど、配慮が足りなかった。もっと、お前の書いた物語と、真剣に向き合うべきだったんだ。なんか、あんな別れかたしてさ、このまま離れてしまうのもなんだかバツが悪くて、いてもたってもいられなかった。だから、ちゃんと向き合ったつもりだ、今回は。お前の物語と本気で向き合って、本気で面白くしてやろうって思った。それで、さ、仲直りの印にしては、無粋だけどこれ受け取ってくれ。お前のために書いた、俺の気持ちだ」
 深崎は、おそるおそる茶封筒に手を伸ばす。けど、手に取らない。
「お前にはそれを受け取る資格があるよ。だって、お前は作者で、俺は読者で、これは単なる感想文みたいなもんなんだから」
 今度こそ、直前で止まった手が茶封筒を掴む。
「ありがと、直人くん。でも、こういう場所では、ちょっと……困るかも」
「へっ?」
 辺りを見回すと、他のお客さんがこちらに注目していた。しかも、その視線はどこか生温かい。
「あははは……」
 書店ではお静かに。一買い物客としての大前提を、どうやら俺は忘れていたみたいだ。